なかよくけんか

漫画と漫画じゃない

卒業

「さとうさんって、とっても話しやすいよねー。」ゼミの同期の男の子たちからそう指摘され、「まじで?ちょうありがとー」と笑顔で軽やかに返答しつつも、ほんとうのわたしは、しずかに、誰よりも緊張していた。









昨日、わたしは大学を卒業した。
朝から卒業式があって、式典に出席したり、晴れ着の友人と写真を撮り合ったあと、教室に移動した。卒業証書を受け取るためだ。そこにはゼミの教授と、同期の四年生があつまっていた。



ゼミについて振り返ると、わたしはふつうに授業に出席こそしていたものの劣等生で、哲学専攻だけど哲学なんてよくわからない。ていうか活字にも疎い。本すらろくに読まなかったからだ。「大学ではなにを勉強してたの?」「哲学専攻でした…」「え!?なんかすごそう。マニアックだね!どういう哲学者が好きなの?」という会話になっても、「いやー適当にやってたんで細かいことよくわかんないですね。卒論も少女漫画について書かせてもらったくらい、めちゃ劣等生なんですよ」と返答して相手を困らせてしまう。もうしわけない!もうしわけないけど、その話題で盛り上げることは、わたしにはいまのとこできないんです!勉強してこなかったから!




こんなありさまだから、同期と哲学の話で盛り上がることもできず、ただでさえ途中からゼミに入っているから、なかなかまわりと打ち解けられなかった。けれど、そんなわたしにも皆と仲良くなれる機会が数回あった。それは飲み会だ。

わたしはお酒を飲むとゲラゲラと愉しくなれるから、その勢いでみんなに絡んで下品なことをあっけらかんと言って、親しみやすさをアピールしてむりやり打ち解けた。哲学のはなしができないからかわりに恋愛のはなしを召喚して、みんなのリア充エピソードおよび非リアエピソードおよび童貞エピソードを引き出して、とにかくいっぱいわらった。わらって、わらって、なんとか多少打ち解けた、と思う。













だから、卒業証書を貰ってみんなでだらだらしているときに「さとうさんって、とっても話しやすいよねー」と褒めてもらったとき、わたしは(あーそりゃそうか。)って心のなかで呟いていた。だって、みんなと手っ取り早く打ち解けるためにはお酒飲みながら恋話(っていうか下ネタ)で盛り上げるのが最適だとおもってわざわざフランクに振舞っていたわけだし、その結果、この子話しやすい人間だなって解釈されたのは、とうぜんだよねー。





でもわたし、べつに話しやすいような人間じゃない、気がする。ノリが悪いときも全然あるし、寡黙なときもあるし、ひとのはなしなんて聞いてらんねーよってときもある。飲み会のときは打算で親しみやすく振舞ってただけで、自分のことこんなにべらべら喋っていいのかなあって内心ヒヤヒヤしてた。でも止めたら白けるからやり抜いて、ほんとうはこころのなか「大丈夫かな」「引かれてないかな」でいっぱいだった。ひといちばい、緊張してた。そもそも、本来みんなの共通の話題であるところの哲学トークで盛り上がれないっていう負い目から、はずかしいのと、すこしいたたまれないのとで、「はあ。なんだかなあ」ってちょっとだけ空虚だった。かといってあの時の笑顔が作り笑いだったというわけでもなく、つまり、真実と真実じゃない打算がまざっていて、なんだか心がザワザワしてくる。


こうやって、集団でいるとき自分にふさわしい役回りを模索してピエロのようになってしまうのって、とても虚しい。「話しやすい」なんて高評価をわたしは無事に獲得できたのに、不思議と心は満たされない。むしろ肯定されると、そういうむなしさって膨らんでいく。しまいには、いっぱい笑っていたわたしごと嘘だったんじゃないかって、自覚なかったけど作り笑いしてたのかもなんて、ぜんぶわからなくなってきてこわい。昨日わたしは、大学を卒業した。4月からは社会人になる。会社に入って、あたらしく知り合った人達のなかで、わたしはまた自分の役回りを模索して、ときに本来の自分を見失うのかな?卒業はひとつの区切りというけど、ここからあたらしい自分が始まるなんてことはなくて、よくわからない自分が、よくわからないまま、季節だけ変わってまた生きていくんだなって予感がする。

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出る杭は打たれる

# 個性的なブスが嫌い という衝撃的なタグを見かけた。かわいい女の子のSNS上で。わたしは絶句した。それは、そんなことは、まさか、もう終わりだと思った。今わたしはこの世で一番残酷な言葉を目撃している、そう確信して、眠れない深夜5時を迎えた。



そんな、嫌いだなんて切り捨てられて、個性に走ることすら禁じられたブスは、じゃあ、どこに向かえばいいと言うんだろう。個性は、美醜に左右されることなく最短ルートで身につけられる、若しくは元々備わっている、人それぞれの価値じゃないか。それを、それを深めることを醜いと、よりによって美人に班を押されるなんて、もう絶望じゃないか。出る杭は打たれるならぬ、出るブスは打たれるだ。ああ断崖絶壁。断崖絶壁、いや、崖があるならもうとっくに落下してる、今やもう海底にどっぷり、とっくに還らぬひとだ、







まてよ、個性的なブスが嫌いということは、個性的じゃないブスは好き、ということなんだろうか。
いや、そんな都合のいいこともないだろう。個性的なブスが嫌いと言ってのける人は、個性的じゃないブスもそれはそれで軽視してそうじゃないか。なんとなくだけど。


というか、個性的とひとことでいっても、いろんな個性がある。それらが悪く作用している人達に対して嫌いだと、彼女達は言うのだろうか。個性が悪く作用する、それは、俗にいう「いたいたしい」人間のことだろうか。

たとえば一時期流行った「あの子のほうがかわいいから 私と別れたの?いいよ 私も 彼氏つくる」的な自撮りとか、すっぴん→メイクの詳細なビフォーアフター画像とか、そういう"勘違い系"を指すのか。
それともポエマー系?????サブカル??ジャニオタ?アニオタ?ゲーオタ?腐女子?もしや、すべての個性をさして、すべてを包括して、あらゆる個性的なブスが嫌いだと、そういうのだろうか。徹底的だ、残酷なまでに徹底してる。









わからない。何がわからないのかというと、ブスは、美人に、個性をもってして、勝つことはできないのかということだ。

個性は名の通り個々の性質で、ひとりひとりのオンリーワンだ。外見がうつくしいとか、そうでないとか、関係ない。自分だけの、かけがえのなさだ。それを磨くことでなら、質のよいものへと深めていくのなら、美人相手にも戦えるんじゃないのか。


化粧で女は変わる。とはいえある程度は、先天的な目鼻立ちなんかは、どうにもならない。だから個性は希望なんじゃないのか。ひとが輝くとき、そのかがやきは美醜じゃなくて、内面にあると思いたい。それなのに、個性すら封じられたら、バッサリ切り捨てられたら、もうどうしろと言うのだろう。




絶望だ、美人は遥か高みから、タグ付けという至ってカジュアルな仕方でもってブスの退路を断つ。その様は鮮やかですらある。美人は、個性的であろうとなかろうと美人なのだ。ゆえに無敵で、だからこそ、個性なんぞに走る羽目になった哀れなブスが、滑稽に見えて仕方ないというのだろうか。こんな問題に、まさか就活解禁初日に直面するとは思わなかった。だめだ、このまま自己分析なんてしたら、沈んでしまう危険だ、なんせいまは深夜5時。崖を落下して、海のそこに沈んでいくこんな深夜5時が、はやく終わればいい、私は回復の朝を待つ。

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かけがえのない俺

「話の通じる相手じゃないんだから、オレ」


なんとなく観ていたテレビ番組で、あるコンビ芸人が漫才をはじめた。それとなく観ていたら、ボケ担当の男の人がいきなり上記の発言をひょうひょうとかまし、私は面食らった。


すばやく相方の女の人が「自分で言うなよ!」的なツッコミをキメて無事に笑いをもぎ取り、さっさと次の展開に移行したのだが、いや待って、いま、なんか、引っかかった。あのボケの男は「話の通じる相手じゃないんだから」を自称したのか?まって、置き去りにしないで。













その後、ハッとした私はいても立っても居られなくなり、覚えたてホヤホヤの「メイプル超合金」というコンビ名でyoutubeに検索をかけ、彼らの漫才をいくつか見てみた。


どうやら、全身真っ赤な衣装(という名の私服)を身にまとったボケの男性と、彼に「俺の最寄りのバケモノ」「平均体重底上げ担当大臣」と揶揄されるツッコミ担当の巨漢な女性の2人組で、なんとなく南海キャンディーズを彷彿とさせるコンビだった。わたしはお笑いに疎くてしらなかったのだけど、M-1グランプリTHE MANZAIにも出場したいま人気急上昇中のふたりらしい。




検索でヒットした動画をみていて、わたしは再び度肝を抜かれた。
ツッコミの女性がボケの男性をはたいて一言二言いったあと、ボケの男性はこう言い返したのだ。「叩くんじゃねえ、かけがえのない俺だぞ!」と。




















もちろん、「お前が言うな!こっちが決めるんだろうがそれは」とツッコミに去なされてしまうのだが、いや、まてよ、「かけがえのない俺」、そうたしかにその言い方は不自然だ。「かけがえのない」という表現は自分ではなく他人に対して使うのがふつうだ。とても代替することなんてできない、大切なひとに対してつかわれる言葉で、それを自称するなんておかしい。





あれ、でも。
じゃあもし私のことを「かけがえのない」と感じるひとがこの世界にひとりもいなくなったら、自動的にわたしは「かけがえのない」人間ではなくなってしまうのだろうか。替えのきく、いてもいなくても変わらない存在になるのだろうか。



果たしてそうだろうか。世界中のだれもが私のことを「かけがえのない」存在だと思わなかったとしても、わたしが、わたし自身のことを「かけがえのない」存在だと思ってさえいれば、少なくともわたしはわたしにとっては確かに「かけがえのない」存在であるといえるのではないか。


そうかんがえると、「叩くんじゃねえ、かけがえのない俺だぞ!」という表現は、不自然ではあるものの、なまじ破綻しきった論理とは言えないのではないか。彼は何者なんだ。コントをしているようでいて哲学をしているのか?







しかも彼は別の箇所で、「そんなんだからお前他の芸人にも嫌われてんだよ!」とつっこまれたときに、「へーえ 屁でもねえ 不思議と穏やかな気持ちです」とクールに返答している。
この人、他人の評価なんててんで気にならないのか。ひとにどれだけ嫌われようとそんなの涼しい顔で、自分のことを「かけがえのない俺」と言ってのけるのか。すごい。その自信どこから湧いてきた。

あくまで漫才の上でのキャラに過ぎないのかもしれないけど、わたしは無性にこの男性のことが気になってしまい、すこし調べてみた。どうやら彼はバイセクシャルらしく「男女問わずうつくしい人が好き」と公言してるらしい。言われてみればなんとなくそんな雰囲気がある。ていうか、バイセクシャルのひと、波風立ちがちというか、苦労の多い一生を送っていそうだ。理解のない人達から偏見を持たれることも多いだろうし、煙たがられたり、無闇に嫌われてしまうこともあっただろう。そんなことをいちいち気にしてくじけていたら生きていけない、自分の真価を決めるのは自分だ、そういう気持ちをもって生きてきたから他人の批判を「屁でもない」むしろ「不思議と穏やかな気持ちです」と容易く受け入れてしまう境地に達したのだろうか???わたしは何気なくボケを繰り出す彼から、その背後にある彼の人生を勝手に想像して、youtubeを前にひとり悶々としていた。








ああそういえば、冒頭の「話の通じる相手じゃないんだから、オレ」というボケ。あれが引っかかったのも、「話の通じる相手じゃない」という表現はふつう自分ではなく他人に対してつかうものだからだ。なにを言っても説明がスムーズに通じない、天然で馬鹿っぽくて物分りがわるいひとに対して使われるような言葉だ。それを自分にたいしてつかうとは。ていうか、自分のことを「話の通じる相手じゃない」って、なにその極端なまでの自覚。そこまで自覚できてるならもはや、話の通じる側の人間そう。また、彼は言う。「ガキの頃みた 町の変わり者に まさか自分がなるとはなあ」






「ガキの頃みた町の変わり者と同じ」「話の通じる相手じゃない」と自分を冷静に分析して立場を自覚し、さぞ「自分なんか」と卑下しているのかと思いきや、他人の批判を「屁でもねえ 不思議と穏やかな気持ちです」と華麗にいなし、あげく「かけがえのない俺」とまで言ってのける。すごい、なにをもってしてそこまでの自信を持てた。やっぱり自分のことを鼓舞して奮い立たせてくれるのは、究極、他人ではなく、自分しかいないんだということを私達に示唆しているのか??そうしてコントを通して生きることへのメッセージを教えてくれているのか?彼は何者なの。ただのボケじゃなさそうなことだけはわかる。
















とにかく「メイプル超合金」、そしてあの男の人が、気になってしょうがない。
またテレビで観たい。


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オレンジに返り咲く

昨日、近所のドラッグストアに行って、生理用品コーナーを見ていた。なんでもいいから一個サッと取って、すぐレジに持って行って、ちゃっちゃとお会計を済ますつもりだった。でも、思わぬ先客に目がとまった。スーツの上に黒いトレンチを羽織った、50代くらいの典型的な「お父さん」という風貌の社会人が、生理用品コーナーの前でうろうろしていたからだ。


彼は耳に携帯電話をあて、妻らしき人物と電話しているようだった。「わかんない」「わかんない」「わかんない」と仕切りに言っているのが聞こえた。たぶん奥さんに、買い物ついでにナプキンかっといて家に一個もなくなっちゃったんだよね何でもいーからさ的なおつかいを頼まれて承諾したものの、いざそのコーナーに立ち寄ってみたら、思わぬ充実したラインナップに、どれを買うのが正解なのかわからなくなって本人に電話して聞いてる、とかだとおもう。


わたしがそのコーナーに近づくと、その人の「わかんない」の声がいっそう焦りを帯びて聞こえた。50のおっさんがこんな、生理用品コーナーにひとり立ち尽くしていて、隣に事情をしらない若い女のお客さんがいて、変態と思われやしないだろうか、気まずいことこの上ないから、とにかく早くなにを買えばいいのか教えてくれよという動揺を孕んだ「わかんない」を、妻に投げかけているのだろう。






なんだかその、電話片手にアタフタして、何を買えばいいのかわからず電話ごしに奥さんにすがるおっさんの姿をみていて私は思った。ああこういうひと、好きだなあって。わたしは男性の、こういう一面が好きなのだ。








つまり、いじらしいというか、抜けているというか、しょうもなくて、恥ずかしいところを見ると、なんだかキュンとする。こういう人と結婚して、ずっと支えたいと思ってしまう。





ああなんか恋愛、恋愛がしたい。
見知らぬ人とはいえ、ぐっとくる異性の行動を目の当たりにすると、ふと、そうおもった。


そういえば一昨日はバレンタインだった。今年はなにもチョコのたぐい、つくってない。しかも、なにもつくってないことに、どうとも思っていない。こう、「やばい今年なんもつくってない女としてまじで終わってるわガハハ」くらい思ってれば、反省が見えるしまだ可愛げがあるものの、なんというか、現時点で何も感じない。感慨もわかない。焦りもない。無だ。だって、いま好きな人いないし。





去年だったか。友達に、まほのオーラがオレンジ色に変わった、と突然言われた。いわく、今まで黒とか灰とか、ダークカラーで構成されていたオーラが、急にオレンジになったらしい。そのとき私は恋愛をしている真っ最中だったから、きっとオーラも明るくなったんだろう。そのとき私は自分史上最強に、思考回路が華やかで、世界のすべてがハッピーだったんだし。でも、じゃあ、友達にききたい。いま、2016年2月16日現在のわたしのオーラはどんなぐあいなのか。また黒にもどってしまったのか。幸せの象徴のオレンジはもう跡形もなく消えて、いまわたしの周りには再びくろく淀んだ空気がただよっているのか。あああ、いま自分の色がどうなのか、とっても気になる。




恋愛をしてるときだけオレンジに輝いて、してないときは常に黒だとしたら、人間としてどうなんだろう。もしそうだとしたら、なんか、客観的にみて、「おまえ恋愛以外に楽しいことないの?」なんて言われそうだ。やばい、しょうもない。そんなことはやだ。みとめたくない。



というか、「おまえ恋愛以外に楽しいことないの?」という問いかけって、なかなか刺さる。刺さりがちな21歳。お年頃である。漫画を読んだり服をみたり家族と過ごしたり夜布団の中で気になることを悶々と考えたりする時間はたのしいし好きだし、バイトもとてもやりがいがある。他の人ほど多くはないけど、何かを達成する喜びを味わったこともある。受験とか勉強でもそうだし、ピアノなんかの習い事でもそうだ。楽しい瞬間はいくつもあった。でも今のところ、恋愛の喜びにまさる幸せをわたしは体感したことがない。だから私は人生経験が浅く、深みのない人間なんだということは重々承知している。世界にはもっと、価値のある事柄があって、生きていることを噛み締める瞬間が他にあって、大切なことがまだまだあるのだろう。ああでもわたしにはいま、欠けている。まだよくわからない。


それを自覚するたび思うのは、やっぱり仕事だ。仕事がしたい。仕事がたのしくて、やりがいがあれば、わたしのオーラは恋愛という仕方をもってしなくてもオレンジに返り咲くだろう。自分の頭をフル稼動させてアイデアを出して、創造をする仕事がしたい。それが生き甲斐になって、恋愛抜きに華やかな人間になれたら、それはちゃんと、カッコいい。
だからわたしが今年すべきことは、恋愛にいそしむことではなくて、就活を着実に成功させることだ。そうして、あたらしく、自分のオーラをオレンジにする活路を見出すのだ。就活よ、わたしの幼い恋愛史上主義をずっ潰してほしい。

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お花畑に折り合いをつけて

就活がはじまる。わたしは焦っている。地に足がつかず、ばたばたと虚空を蹴っている気分だ。どこに足をおいていいのか分からない。こわごわと探っている。


先日、仲良い友達3人とご飯をたべたとき、わたしの長所なり短所なり人間像を、あけすけに教えてもらった。やっぱり就活の直前というのは自己分析をすべきらしく、ははあじゃあやるかぁと思ってひとり地道にノートに書き出してみたりはするのだが、客観的に自分をみるというのはむずかしい。それなら大学1年生のときから仲良い友達のほうがわたしのことを客観的に分析してくれるはず!ということで、わたしはどういう人間なのか、教えてもらったのだ。




結果、意外だった。わたしはリアリストで、合理的で、ひとに慰めの言葉をかけないらしい。
ひでぇ!とおもいつつ、確かにそうだなぁと思う。人が苦しんでいるとき、苦しみを共有して一緒にいてあげたり、慰めたりというよりは、その苦しみに対して処すべき行動を冷静に考えて提示したがるタイプで、自分勝手だし、あまり情に厚くない。
悩んで悩んで同じところをぐるぐるするよりは、「やるか」「やらないか」すぱっと決断して、諦めるにしろ諦めないにしろ早く決着をつけたくなる。(それはあきらかに、他人にまで押し付けていいものではないけど)




たとえばわたし自身が恋愛にくるしんでいるときも。心の中はごうごうとあつく燃えさかって爆発していても、ひややかな理性でもってなんとか飲み込まれないようにあらがう。ああああああああと一通り爆発したあと、「いま、なんで、自分はこうなってて、今後すべき適切な処置は」とぜいぜい息を切らしながら検討する。だって、感情に巻き込まれて理性ごともってかれると、えてして判断を誤ってしまうから。それは惨めな行動につながる恐れがある。避けたい。




そう、結局みじめになるのがこわい。なぜ怖いのかというと、思い当たるふしはたくさんある。
出来た人間ではないから感情任せの行動もこれまでたくさんしてきて、そのたびみじめな思いもした。
なるべくならそんな思い、回避したい。(いまではその考えはちょっと、勿体無いというか、消極的で間違っているとは思うが)
だから、わたしはいつのまにか合理的でリアリストな人間になったのだろうか。




ちなみにこの会合のあとに、エゴイズムという自己分析メーカー(?)もやってみたのだけど、そこでも「心の冷たい合理主義者」だとズバッと指摘されて、肝を冷やした。
ほかにも「神を信じない徹底した自力本願タイプ」だとか書いてあって、まじかそこまでか、とびびった。













でも、、うーん。
そんなに合理的でリアリスト一辺倒な人間だったっけ。わたしは。そんなにずっとサツバツとしているっけ。いやそんなことはない、とおもう。


むしろ、ロマンチストもいいところのアタマん中お花畑ちょうちょがひらひら人間だったとおもう。今でもそうかもしれない。






小学生のとき、絵を描くのが大好きだった。少女漫画もすきだ。小学校中学年くらいのときは、ちゃおを毎月買って、すみからすみまで愛読していた。はつらつ元気ハッピーなヒロインになって、第一印象の悪い俺様タイプな、でも根はやさしいクールな男の子と恋愛することにあこがれた。高校生になったらみんなこんなすてきな恋愛をするのかなー!なんておもっていた。将来的にはきらりになって星司くんと宙人とのあいだで揺れる心構えをしていた。



その後、小6くらいからだろうか、BLも読みだした。でもわたしは「好きな作品の好きなカップリングにまつわる創作を、もりもり漁って鑑賞する」という一般的なタイプではなかった。
わたしには大ファンの物書きの作者さんがひとりいる。そのひとの創作だけを10年間ちかくよんだり見たりしてきた。そのひと以外はもうずっとよんでいない。


10年間も読んでいると、自分のかく何でもない文章の端々にそのひとの影響がでているような気がしてくる。わたしは文学部だけど、ふだん全く小説を読まないし、そんな体たらくだから、ほんとに大学のレポートでもなんでも、文章構成の参考にできるのはそのひとの文章しかなかった。それしか読んできてないから。





まあそれだけファンで、小中学生のときは特にサイトに通いつめていた。
サイトにあがる新作を読みながらわああっと幸せな気分に浸るのが最高だった。
そのひとの文章は私にとっていっとう特別だった。






そのひとの文章を読む手段、それは前述した「サイトにあがってくる新作を読む」という他にも「通販で同人誌を買う」という手段があった。
けどわたしは当時まだ小中学生だった。得体の知れない「銀行振込」、自分が持ってるのかもそもそも不明な「銀行口座」、「定形外」だか「レターパック」だか未知の配送、兎に角わからないことが多すぎた。

なにより親に配達物の中身が同人誌だとわかったらどう思われるんだろうという恐怖がでかかった。






よって、同人誌かいたい、読みたいという気持ちを抑えつつ
イヤ冷静にむりっす、ということでずっと通販を諦めてきた。

わたしは長らく恋い焦がれていた。自分の手に入らざるとも確かに存在している文章たちに。サイトにあがる小説よりも、遥かな時間とお金をかけて制作されたであろうその努力の結晶に。


読みたい。とひたすらにおもっていた。
買えなかったぶん、余計にそう思った。
どんなにいいものだろうと、想像を膨らませていた。





ときは過ぎて、わたしは大学四年生になる。通販も容易にできるようになった。
いまさらわたしがなにか通販で注文して、家に届いても、親はなにも勘ぐらないし、ましてや勝手に封を開けるなんてことはしない。


もういくらでも買っていいのだ。ずっとかえなかった同人誌たちを。こんにち、わたしには選択の自由がある。今まで決して手の届かなかった甘美なものたちを、手に入れるチャンスは無数にある。彼方にあったロマンスは、いまや現実の世界へと降りてきたのだ。







けれど、それだけ私の立場が変わったということは、それ相応の時間が経過してしまったということで、もう10年も経ってしまった。10年もたてば、なにもかも、最初と同じではいられない。活発に運営されていたサイトは、いまやほとんど更新されず、広告が飛び交い、さっさとpixivに移行し、メインジャンルだって今流行りの版権ものに変わってしまった。もう、かつてほどの熱量は感じられない。



そんな過疎ってるサイトの中を潜り抜けて、通販の項目をチェックし、やっと、待望だった同人誌を買った。たしか、大学一年生のときとか。作品が到着して、とても嬉しかった。ああやっと買えたとおもった。でも同時にさみしかった。ずっと手の届かなかったものが、いまや簡単に手に入る。それはなんとなく、むなしい。手に届かなかったから、憧れていたのかもしれない。それに時代は変わったし、この手元にある同人誌には、かつてほどの熱量は感じられない。


なんだか、ずっと夢をみたままでいたかった。なまじ現実に手にしてしまうよりも、ずっと手に入らないまま、「ああどれだけいいものなんだろう!」といつまでも恋い焦がれていたかった。あれから、そのひとの同人誌は買っていない。そもそも、サイト運営が滞っているみたいだから、買いようもないのだけど。なんか、10年もたったんだなあ。さみしい。







いつも同じところでぐるぐる、頭のなかお花畑で夢見がちだった自分は、こうしてすこしづつ現実の世界を踏みしめて生きていくようになった。少女漫画みたいに、ほっといてもイケメン2人組に挟まれて、もう私どっちが好きなのかワッカンナイ!と選択に困る機会は現実には起こらないのだ。ロマンチックな文章や作品は、やっぱりいつまでも憧れるし、最高なのだけど、それはそれなのだ。現実は現実でこなしていかないといかんのだ。もう21歳なんだし。そういうことを学んできた。
頭のなかお花畑女が、いまや「心の冷たい合理主義者」か。いったいどっちが、本来の私なんだろう。なんて考えていると、とにかく自己分析に詰まるし、ああ就活こわい。

弟の夫

思わず二度見、三度見するようなタイトルの漫画を先日読んだ。


弟の結婚相手はカナダ人、そして男だった!?
弥一と夏菜、父娘二人暮らしの家に、マイクと名乗る男がカナダからやって来た。マイクは、弥一の双子の弟の結婚相手だった。「パパに双子の弟がいたの?」「男同士で結婚って出来るの?」。幼い夏菜は突如現れたカナダ人の"おじさん"に大興奮。弥一と、"弟の夫"マイクの物語が始まる(月刊アクションより)


帯には「文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞」「このマンガがすごい2016・11位」「コミックナタリー大賞2015・9位」などもろもろ記載あり。
まだ2巻までしかでていないのに!きになる!!



作者・田亀源五郎はゲイアートの巨匠らしく、本作が自身初の一般誌掲載マンガとのこと。彼自身が同性愛者で、ゲイをテーマにしたイラストや漫画を発表し、海外で個展を開いたりとアーティストとして精力的に活動しているんだとか。




表紙ひとつとっても、なんとなく「その筋の作者」感がただよっていてビビるのだけど(体つきのがっちり感やら)、
絵としてはスッキリして見やすく、なんとなくアニメっぽいパキッとした明るい色遣い。


あらすじも読んで、きになる!ということでAmazonでポチったのだけど、やっぱりおもしろかった!




主人公・弥一は娘・夏菜と二人暮らし。
両親が遺してくれたアパートの大家をつとめて生計を立てている。
弥一には双子の弟・涼ニがいるが、10年前にカナダへと旅立っていて、ずっと疎遠になっていた。
そして先月、涼ニは外国の地で他界してしまう。

そんなある日、弥一と夏菜の暮らす家に、
涼ニの「夫」を名乗るカナダ人マイクがやってくる。

マイクと一緒に生活をしていく過程で、同性愛の現実と偏見とのギャップが露わになってくる。




という感じ。
ちなみに女性向けのボーイズラブとは全くもって別物。
モーニングで連載している、中年ゲイカップルの衣食住を描いた よしながふみの「きのう何食べた?」に近い印象。




さて、、「弟の夫」、扉絵のひとつひとつが可愛くてスゴくなごむ。


この扉絵の女の子こそ、主人公の娘・夏菜。同性愛という手強そうなテーマだが、夏菜の純粋さに助けられて、するするとよめる。


たとえば弥一がマイクに気を遣い、つねに言葉を選んで会話する一方で、夏菜は気になったことはかたっぱしから質問していく。


「そもそもパパに弟がいたの?」「そのひとは今どこにいるの?」「てか男同士で結婚?」「そんなことできるの?」「なんで日本じゃできなくてよその国ならできるの?」「どっちが旦那さんでどっちが奥さんだったの?」「カナダでは女同士でも結婚できる?」「なんでイレズミがあるとジムに行けないの?」「じゃあイレズミをしてるあの人たちは怖い人なの?」



幼い夏菜のするどい質問に、弥一は言いよどんでいつもあいまいな返事をする。そうすると、夏菜は眉をひそめて言う。「やっぱりよくわかんない!」と。

当たり前だとおもっていた常識を、夏菜に「なんで?」と問われ続けることで、弥一は自身の常識が間違っていたことに気づかされる。

男同士で結婚するなんてことが
俺にとっては寿司のテンプラみたいなもんだ

今はまだ 味も喰い方も判らない

自分にとって同性愛は「寿司の天ぷら」のようなもので、今は全く理解できない。
そんな弥一はマイクとの交流を通して、これまで考えることを避けていた亡き弟・涼ニとすこしづつ向き合っていく。





そしてマイクが、どでかいクマみたいなカナダ人なんだけど、そのマスコット感になごむ。



全体として、あたたかいホームドラマというかんじ。なにか大事件が起きたり、感情の爆発があるということもない。弥一と夏菜とマイクが、ごく当たり前に日常を送っている。イロモノを見る気持ちでこの漫画を読んだら拍子抜けするかもしれない。あまりにもシンプルで、ふつうな日常が描かれているからだ。
第3巻もたのしみ!

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看板犬の不幸

近所に新しく飲食店ができた。あたらしく、といってもなんだかんだ、オープンは1年くらい前になるだろうか。ほんとに超近所で、家から20秒くらい。



人入りはどうかというと、わたしが見ている限りでは、芳しくない。というかガラガラだ。

ランチ営業もやっているみたいだが、看板をみているかぎり、お酒を飲めるレストランあるいは居酒屋という風貌で、ディナー営業が主っぽい。
夫婦営業で、柴犬が玄関でお迎えしてくれる。お店自体は小さめ。



なんでガラガラかというと、全くもってコンセプトが謎だからだと思う。

たこ焼きを全面に打ち出したかと思えば、つぎはビーフカレーを宣伝して、いまはあんかけ焼きそばだったかな。
一度わたしのお父さんが食べに行ったことがあるが、そのとき食べたのは麻婆豆腐だったらしい(ちなみに味はレトルト並みだとか)
そのわりに立て掛けてあるメイン看板はサラダなんかの前菜の写真で、もうとっちらかっている。コンセプト難民。なにを食べればいいのか少なくとも外からだとさっぱりわかんない。。





そしてわたしが一番気になってしまうこと。それは看板犬の存在。

看板犬が元気で、健康で、人懐こくて、ニコニコ楽しそうにしているお店は、きっと接客も行き届いてて、美味しい料理が出てくるようにおもう。
わたしは犬を飼っていて溺愛しているから、よけいそこを意識する。



なのだが、そのお店のわんちゃんは、見るからに、不幸そうなのだ。
寒いのにずっとお店の外で座らされていて、お風呂もまったく入っていない風貌で、看板犬をしている。目は哀しげだ。
しかも、※人に噛みつきます注意※と書いてある。それはもはや看板犬なのか。


わたしが犬の散歩をするたび、その店の前を通りすぎるのだが、キャンキャンと吠えられてしまう。あの子も散歩に行かせてもらっているのだろうか。わたしにはあれが悲痛な叫びに聞こえてならない。





コンセプトが謎な看板をいくつも立て掛け、かなしげな目をした柴犬が玄関に座っている。
夫婦はタバコをふかしたりしつつ、お客さんが来るのを待っている。










わりと、異様だ。
そりゃガラガラだわ、、



わたしはお母さんにこの話をした。



私「そこのさ〜謎のレストラン、ガラガラだよね」
母「あれはやる気ないから」
私「なんでお店やってるんだろう、経営できてるのかな」
母「あの人らベンツだもん」
私「えなに?ベンツ?」






母いわく、あの夫婦はベンツをお持ちだそう。
お店の前に駐めて、仕込みをしているのをよく見るらしい。


ベンツ、、、ベンツというとどうしてもお金持ちのイメージだ。
あの夫婦はそこそこお金があるんだろうか。中古車の可能性も否定できないが、にしたってベンツ。でも、あれで経営がなりたっているようにはとても思えないけどなあ。






じゃああれは、暇を持て余した神々の遊びなのか?
お店を流行らせたいなんて最初から考えてなくて、サラリーマン人生に一区切りついて、ああして老後の余生をお楽しみなのだろうか。そんなに老けては見えなかったけども、意外と。子供たちみんな出て行ってひと段落したし、ちょっとお店でもやってみるか〜的な。それならあのやる気を感じない経営も理解できそうだ。


でもそんなことが、、あの夫婦がお金持ち?それすらも謎なままだが、まあでも仮にもベンツ、、




たこ焼き、ベンツ、ビーフカレー、ベンツ、あんかけ焼きそば、ベンツ、柴犬、ベンツ


なにが真実なんだ。
なんにせよ、お店のコンセプトがまとまらなかろうと、客入りが悪かろうと、少なくともあの看板犬には幸せになってほしい。週一回はお風呂にいれてやってほしい。
もっぱらそればかり考えてしまう。

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