なかよくけんか

漫画と漫画じゃない

敗者

わたしは長らく、川崎市のある街に住んでいる。幼稚園児になる前に引っ越してきたから、15年以上。落ち着いた町で、スーパーとファーストフード店とコンビニくらいしかないけど、住みやすい。


家の近くに、コジマという家電量販店ができた。わたしが小学校低学年くらいの頃だろうか。なかなかデカイ3階立ての建物で、こじんまりしたこの街からしたら、かなり存在感があった。




わたしは小学生、そして中学生のあいだ、毎朝コジマの前を通って通学した。とくになにを思うでもなく、ただその前をとおって、毎日登下校していた。


頻度こそ少ないけど来店する機会もあった。お店においてあるアップライトピアノとか電子ピアノを無意味に試奏しにきたり(いま考えるとそこそこ迷惑だな)、イヤホンを買いかえる時はいつもコジマだし、携帯ショップも入ってるから機種変のときはスマホ片手に行くし、パソコンを見にいったりもしていた。



つまりこどもの時から現在にいたるまで、なんだかんだでお世話になっている。

コジマ、この街に来てくれてホントありがとな、とかはわざわざ思わない。なんとなく、あるのが当たり前、というかんじだった。








わたしが高校3年生くらいのときだろうか。
帰宅中、ふと顔をあげた。
そのとき目に入ったコジマの看板は、いつもと違った。









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コジマ×ビッグカメラ




そう書き換えられている。
いや、なにそれ、聞いてないけど、と思った。

すぐに色んな文字が頭をよぎった。買収、合併、大会社、小会社、弱肉強食、戦争、サバイバル、生存競争、勝者、敗者、ampm、、、わたしは冷や汗をかいた。






そして思った。コジマは負けたんじゃないか、と。


コジマはビッグカメラに負けた。そうじゃなきゃこんなことにはならないじゃないか。なんだよコジマ×ビッグカメラって。聞いてない。聞いてなさすぎる。わたしが小学生のときから目にしていた「コジマ」の三文字の看板は外された。はずされて、かわりに、ビッグカメラの文字が、其処此処に書かれていた。買収とか、合併とか、それがどういうことなのか、具体的に知っているわけではない。わたしは、なんとなくこの世の終わりのような気分になってしまったけど、実情は私が思っているより穏便なものかもしれない。そうかもしれない。でもでも、、



それでもわたしはその時直感したのだ、コジマは負けたのだと。
ああ負けてしまったのかと思った。

ビッグカメラより、せめてもの大きめな文字でコジマと書いてあるのが、わたしには敗者のなけなしのプライドに思えてならなかった。



そのコジマの涙を誘う抵抗の下に、「ビッグカメラのポイントカードがそ・の・ま・ま使えます!」なんて無慈悲に書いてあるのが、悲しくてしょうがない。勝者はいつも敗者より、当たり前につよいのだ。そして力量の差をまざまざと見せつけてくるのだ。ああ、とにかくかなしい。いつもそこにあった、当たり前のコジマが、いま、様子を変えている。コジマの背後でビッグカメラが、腕を組んでわらっている。SMAPのあの会見のうしろに、大きな圧力があるのを私たちが見出したように。この街は終わった。わたしは思い詰めた。


真っ赤に塗りつぶされたあの看板は、戦のあとのコジマの血の色だ。目につくようにあんなに高々と掲げて、キリストの十字架だ。磔だ。わたしは今もまた、大学からの帰り道でその前を通って、いつもいつもコジマの敗北を、目の当たりにするのだ。

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萩尾望都「感謝知らずの男」

慶應の日吉図書館には漫画が置いてある一角がある。



といってもおっきな本棚がふたつみっつほど。他の膨大な書籍からしたらごく一部だ。それでもその一角をはじめて見つけたときは感動した。



いまどきでハヤリの漫画、というキラキラしたかんじではない。

あるのは、手塚治虫藤子不二雄大友克洋浦沢直樹楳図かずお大島弓子竹宮惠子山岸凉子三原順とかたしかそんなかんじ。つまり大御所の名だたるラインナップ。





なんといってもわたしが「こんなにあるんか」とビビったのはずらっと並んだ萩尾望都の漫画だった。

一年生のとき、本棚にあるのを借りてせっせと読んでいたのだが、二年生になって三田キャンパスにうつってからはその楽しみがなくなった。



三田キャンのメディアには漫画が全く置いていないからだ。ざんねんすぎる。あーあと恋しく思いながら近所の本屋をふらふらしていて、そのとき目について買ったのが萩尾望都「感謝知らずの男」だった。短編集。

感謝知らずの男 (小学館文庫)

感謝知らずの男 (小学館文庫)


不眠症のバレエダンサーの話。





主人公のレヴィは、隣人とその彼女の親切、もとい過度のお節介に悩まされる。



神経質で無愛想、とにかくひとりになりたいレヴィに、2人は手作り料理をふるまうと押しかけたり部屋が殺風景だと文句をつけて勝手に家電を設置したり、ただでさえ不眠症だというのにとなりで毎日騒ぎ立てる。レヴィはその、彼らの自称「親切」に頭をかかえる。





挙げ句に「いやべつにお礼なんていいんだ、だって人に親切にするって気持ちいいだろ?」なんてケラケラと言ってのける隣人に、レヴィは思う。「感謝知らずの男になりたい」と。

親切 親切にしてもらった

ぼくは親切の獲物ではない

たぶん ぼくは 一人できりきり舞いして

人の顔色をうかがって疲れて 自分の足場をさぐるのに必死で
とてもとても親切に値しないんだ

ああぼくはもっともっとわがままになりたい 五つのダダッ子のように

世話され与えられ そして決して見返りは求められない

感謝知らずの男になりたい


他人に押しつけられる要らぬ「親切」に辟易し、感謝知らずの男になりまいと思うレヴィの姿に、なんとなく共感をするし、ハッとする。ありがた迷惑を払いのけ、強要される感謝から逃れたいと泥くさく思うレヴィはとても人間的だ。







そしてわたしがこの漫画で一番すきなセリフはこれ。
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レヴィは新しい女性バレエダンサーとペアを組んだことをきっかけにスランプに陥る。なにをやってもうまくいかず、あんなに完璧にできていた踊りが途端にできなくなる。



そして滅びゆく人類といまの自分を重ね合わすのだ。


サイテイだ 自己管理に失敗した

人類は滅びる ぼくは滅びる


進化しそこなった


自己嫌悪に陥るレヴィだが、本番では過去最高の演技をおさめることに成功する。なぜか、それはレヴィが、滅びゆく人類にこれまでの自分を重ね合わせると共に、進化をしようとするイグアナに、自分の未来を見出したからだ。

いやだ いやだ 負けて終わるのか?

進化しないまま 夢見るだけ?いつまでも

感謝知らずで、一匹オオカミと敬遠されたレヴィが一皮むけて、「これからは進化するイグアナをめざす」と、バレエダンサーとして更なるレベルアップを決心するのだ。





ところで、イグアナと聞くと、やはり萩尾望都で思い浮かべるのはこれ。ドラマ化もされた「イグアナの娘」。

イグアナの娘 (小学館文庫)

イグアナの娘 (小学館文庫)

そういえば、「バルバラ異界」だったか「マージナル」だったか記憶が定かじゃないけど、イグアナの比喩は他にも使われていた気がする。萩尾望都はイグアナがすきなのかな、、どうだろう。でもたしかに、イグアナ、言われてみれば、哲学してる顔ってかんじだ。





「感謝知らずの男」は、このエピソードの後の「狂おしい月星」もめちゃくちゃよい。カメラマンの親友との出会いと、そのすれ違いと、崩壊の話。

「死んでいく世界に美が生みだされる」と語る同じ18歳のカメラマンに、レヴィは共鳴する。2人はすぐに親友になる。彼はレヴィを撮り続ける、ひたすら撮る、レンズの向こうからばちばちとテレパシーを放ちながら。

そして彼はカメラの世界でめでたく成功をおさめる。けれど失ってしまうのだ、あの共鳴を。レンズの向こうの輝きを。出版社のパーティーと称した金持ちマダムのサロンで媚びへつらう、すっかり変わった親友をみて、レヴィは喪失感を覚える。


「知り合ってソンのない有名人ばかりだぜ」と語る彼にレヴィは言う。「きみの美にはいつからソントクが加算されたのか」と。


なにげない一コマなのだけど、そのさまが凄く悲しくて、胸が痛くなる。かつて死んでいく世界が美しいと真剣に語った口で、いまはソントクの話をする。その親友の変貌にレヴィは失望するのだ。もう2人は共鳴しない、ばちばちと弾けるテレパシーも、以降感じなくなるのだ。





今日あらためて読んでみて、やっぱりなんか、猛烈にいいなあと感じた。この空気感。かなしみと、それに振り切れないなけなしの望みとで行き交うかんじ。

Amazonで見たら、希少本扱いでビビった。ええ、もっといろんな人に読んでほしいなあ。ぜひ、、

爪切り

今日、ストッキングが一枚破れた。

バイトの退勤後のことだ。


いつも早く帰りたい一心でロッカーではバババと着替えて、いい加減にストッキングを引っ張るから、かなり高確率でやぶれる。


そんないいかげんに引っ張ったら破れることなんて何回もやってるからばっちり分かってるのに、他のスタッフがするする着替えてお先でーすとばかりにぞくぞくと帰っていく中で、自分ばっかりストッキングを履くことにちまちま手間をかけたくない。わたしだって豪速で帰りたい!だから何度も同じことを繰り返す。同じことを繰り返して、また穴をあけて、5秒くらいは後悔して、でもすぐにまあいっかと思い直して、穴をあけたストッキングで、早めの電車に乗るべくいそぐ。まあまた買い直せばいいべやと。こうゆうの、いつもってわけじゃあないし、と。










、、まあそれにしても、いくらなんでも破れすぎなんじゃないか、と思う。頻度が多い。



コンビニで買うやっすいストッキングならそんなにダメージもすくない。実際やぶいてしまうのはほとんどそれらだ。


でも、Tabioとか靴下屋で買った1000円以上するカラータイツを破いてしまったときにはさすがに反省する。あれは厚手だし、やぶくと穴が目立つし、というか再起不能だし、とにかくコンビニのならまだしも、Tabioのは惜しいのである。






わたしは今日すこしばかり残業をして、だから、いつも以上にさっさと帰りたみに駆られていた。バリはやで帰ろうと決めて自分のロッカーを開けた。


わたしは今日もストッキングを履かないといけない。失敗を繰り返さないためには慎重に履かないといけない。でも私は急いでたし、なんせ残業で1時間は押していたし、はよかえろう、ええい、うりゃうりゃとストッキングを引っ張った。










ツメがめり込む感触がしたのち、あっさり破けた。


苦い後悔をした。

だって今日のはコンビニのじゃない、Tabioのだったから。








家に帰って、ヒレカツと味噌汁とご飯をたいらげて、お風呂にはいって、日本がイラクに同点に追いつかれたのをテレビで確認したのち、私は爪切りをはじめた。




やっぱりストッキングが破れる敗因はなんといっても爪なのだ。当たり前なのだが。

めが短くてとがっていなければ破れるこたないのだし、よっしゃきろう、となったのである。


わたしはことさら丁寧に抜かりなく爪をきっていった。いつもよりゆるやかなウェーブをえがくように、、決して決してストッキングをやぶくことのないように、、、




ついでにヤスリでもかけるか、ヤスリってどうやってかけるんだろ、いつも切りっぱなしだからわかんない、何年ぶりだよヤスリ、と思いながら、ヤスリでゴシゴシと爪を丸めていた。














ん?



あれ、






ヤスリ、、














わたしはハッとした。

小学6年生のときに読んだあるBL小説を、このとき唐突に思い出したからだ。



それは年の差もののボーイズラブだった。

べつに凝った設定のものではなかった、俺様年上な攻めとクールな年下受けのカップリングだった。



思い出した場面はこうだ。

容姿に無頓着でいい加減な性格の受けの、伸びきった足のツメを見かねた攻めが、おいちょっとおまえ足だせやといった具合に、受けの足のツメをぱちぱち切り始めたのである。





ははあ、、世話焼きな攻めなんだなと真顔で読んでいたが、そのあとの展開に私は奇妙さを覚えた。




攻めはひととおり受けのツメを切り終わったあとに、ヤスリがけを始めたのだが、



受けはその、ヤスリ特有の、慣れないゾクゾクザワザワ感に驚愕し、普段はクールな設定の彼がとたんにヤメテと嫌がりだして、

それを見た攻めは舞い上がり、嬉々としてヤスリがけを続行したのである。




べつにチューもしてないし、ギューとかもない、それで話は終わりだ。〜完〜 である。


だけど、その光景がやけに、なぜか、ダダえろかったのだ、、






わたしは驚愕した。爪切りにロマンを見出し、いち早くそれを創作に取り入れ、それを「萌え」にまで昇華し、一部の同志たちを魅了するカリスマが確かに存在するのだと。





ごく身近な生活グッズである爪切りのヤスリ、これに目をつけ、いつもはつーんとしている受けの動揺を誘いだし、まるでツンデレキャラのレアなデレシーンを引き出すような仕方でもって、読者をきゃいきゃいと歓喜させる技法があるのだと。














マジ奥深すぎる… と愕然とした。

わたしはその奇妙な遭遇を、このとき唐突に思い出したのだ。




ストッキングがやぶれた、爪を切っていないのが原因だろう、よし丁寧に爪切りしよう、なんならヤスリかけよ、




この一連の作業をしているとき、わたしだったらあのカリスマのように、爪切りにロマンを見出せただろうか。いや見出せなかったはずだ。


ロマンという言葉をつかったが、むろん、BLについてのごく限定的な話をしているのではない。創作全般、芸術全般についての話だ。

一部のひとは、その卓越した想像力をもってして、日常の光るものを人知れず発見して、自らの創作活動にせっせと取り入れて、芸術の道を切り開いている。


わたしはまだまだ人間として未熟だとかんじた。

きっと日常の何気ないひとつひとつに、わたしが気づかないだけで、物語の生まれるところがいっぱいあるはずだ。

いくらでも周りに可能性は広がっている。すべてのものはもはや、単に無機質なものではありえない。


精進しよう。せめて手がとどく範囲は、くまなく世界を見よう。

発見を大切にするんだ。そうしてあのカリスマのように、さまざまに世界を捉え直そう。










というのを、日本がイラクに対してさらに得点をいれて、五輪出場を決定付けたシーンを横目に、かんがえていた。。

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うまれてはじめてのカバン

通販がすきだ。化粧品やら書籍やら生活グッズやらなんでもかうけども、なんといっても服を買う。


どこでかうのかというと、ゾゾタウンだ。

wearのアカウントをとってからというもの、無限にゾゾタウンをみている。




正月セールのときにはゾゾタウンにへばりついて普段は手が届きそうで届かない、いや、届くっちゃ届くが、でもきもち高いんだよな、3千円くらい今より安ければまだ普段でもかうのにな、おしいんだよな




っていうくらいのショップ、つまり憧れブランドをずらっと漁り、オフ率をセール前に事前に予測して何を購入すべきか予算と照らし合わせてじっくり吟味していた。


そして年明けて1月1日。

正月セールの開始を確認したその瞬間にバババッとすばやく、気になっていたものをいくらか数点、かなり安く購入できた。



















こういうとき、ほんとにきもちいい






服ってたのしい

たのしすぎる

えろくなりたいと思えば、えろい服をさがすし、

キリッとしたいと思えば、ライダースなんか探すし、

個性がないと思えば、難易度のたかそうな服を探すし

えろくなりたいと思えば、ことさらえろい服をさがすし、




そのときどき、これがきたい、これこそがいま最高にきたいと思える服をみつけて購入して、それ着て出掛けて友達に褒められたりなんかすると、極度に浮かれてヤッピーになる。




服およびそれを賢く購入できる通販最高 という結論である











なのだが、わたしはとにかくカバンに無頓着だ。

ぜんぜんカバンを持っていない。

オシャレなひとは鞄まで素敵だとおもう。冬にはボアやモコモコのついたもの、夏にはカゴバッグであったり、それ単体で季節感をだせるようなカバンをいくつも持っている印象がある。



自分は服ラブであれどそういうところまで周到になれていないし、オシャレじゃないなあとおもう。


それに、素敵だと思うカバンにあまり出会わない。出会ってもバカ高かったり、荷物があまり入らなそうなサイズだったり、かといって安い服屋でみかけるようなカバンはダサくてヤダっていう八方塞がりで、とにかく全然、鞄を持っていない。













でもやっぱりオシャレなひとは、カバンなのだ  カバンまで手を抜かないひとこそがオシャレなのだ。


大学入学祝いにパパママに買ってもらうようなコーチの、そこそこ値段することはわかるけど、なんだかあまりにもベタな、よく見かける女子っぽいカバンのことではない


ハッとする色っぽい、トレンドを取り入れた、またあるときにはトレンドに左右されない長く使える素敵なカバンを、安価なものから高価なものまでいくつも持っていて 季節と場面に合わせた最善の選択をして毎日のトータルコーディネートを完成させるひと それがオシャレなひとなのだやっぱり




よしわたしもカバンを買うぞ


決意である

なぜならやっぱり、そりゃあ、成れることならオシャレに成りたいからだ


とはいえやっぱりどうしよう。これまでの経験からして、いろんなお店にカバンを探しに行っても八方塞がりになること請け負いだ。


そうそんなときこそ通販じゃないか

お店にいって納得いくものを見つけだす自信がないのなら、とりあえず通販でカバンを探してみるべや となったのである












かくして私は最高のカバンを最良の通販で最善に買うべくインターネットのみちみちに張られた網をかきわけかきわけ探した。



みつけたのである

中目黒の某ビンテージアンティークショップのオンラインストアを。

そこにはフランスであったりイタリアであったりの品よろしげ〜なブランドカバンが比較的安価でざくざくと販売されていた。


中でもそれはそれはかわいい小ぶりな、黒のとびきりのビンテージカバンをみつけた。



うまれてはじめてカバンをかう、そう錯覚するほど特別な興奮感と期待をもって

私は満を持して注文した。

これが家に到着すればオシャレなひとの仲間入りだ、、、、WEARISTAだ、、インスタグラマーだ、、存在の開けだ、、 わたしは到着をまった。
















今朝到着した。

カバンはめちゃくちゃ小さかった。

長財布も入らなかった。

私は家のピアノの上に飾ることにした。



わたしは思い出した、通販には当然失敗があるということを。お買い得にかしこく商品を買えるという利点はある。あるのだが、やっぱりいざ届いて実物をみるとアレ?あーウンってなることが往々にしてあるのである。わたしはそれも含めて通販を愛おしいとおもっているが、買い物カートにいれるとき、つねに失敗の危険を考慮しないといけないのだ。わすれていた。おもいだした。そう簡単にオシャレになれるとおもったら大間違いなのだ。









もいちど通販漁ろ。


誤字したい

Twitter、なにかしらツイートするとき、その内容が真剣だろうと雑だろうと関係なく無限に時間をかけてしまう。






なにかかんがえるとき、決まってネチネチかんがえてしまうし、夜に布団の中で好きとか好きじゃないとか恋愛について考えるときも、永遠にうだうだしてしまう

レポート書くのもめちゃくちゃ遅くて効率がとにかく悪い。だって何十回も見直すから。








つまりは

誤字とか脱字ができないほうだとおもう 


思いつきでバーッと書き上げて、ちゃっと投稿して、寝るっていうのができない

書いたら推敲したくなる

ずっと悩みたくなる

納得の出来じゃないと投稿できない

まったくそんな気張る内容じゃないにしろ






たとえばちょっと普段よりえらそうぶってしたツイートが誤字ったらめちゃくちゃ悔いが残る。





まるで完璧主義みたいだけどそうじゃなくて、いつも批判されるのがこわい

100ぱー納得で、投稿して、それでディスられたらもうなんもいえないけど

ザーッて書いてパッて投稿した、あんま考えてない文を 空リプでひとにさらっとディスられるほどくやしいもんはない




こてんぱん言われるならもっと推敲すりゃよかったよ!と


ベストを尽くしていない産物に文句をつけられるほど悔いの残るものはない


















こういう他人の目を気にしてビクビクして、しょうもないツイートもしょうもなくできないのが愚かしいなって我ながらおもう




誤字がいっぱいで、でも内容がキリッと鋭利でおもしろい

そんな他人のツイートを見かけると感激する。


誤字がいっぱいってことはたいして文を見返さないで投稿しているってことで、それなのに、それでいて、

面白いことが一発で流暢にいえる














かっこよすぎる。

それになりたい。。



誤字したい。。

もうビクビクするのやめよう。












とはいえ




心のなかでかなり切れ味のいい、というか殺傷能力がはんぱないギラギラした考えが浮かぶ。


でもそれをそのままツイートするわけにはいかない、人の目にさらされても上等なようにまるくまるく文章におこす。


攻撃的なツイートをして、人を傷つけるのは厄介だとおもう。

好きなひとには好かれたままがいいから、そのひとたちの目があるTwitterという現場に殺傷能力高い刃物をウリャッとつきだすわけにはいかない



だからまるくまるく削っていく

そうすると当たり障りないツイートができる





あれ?こんなん投稿したかったんだっけ?

ってくらいギラギラの当初からは想像できなかったクリーミーな代物ができる













わたしはTwitterの正解がわからない


憧れるのは、ギラギラした誤字ばっかの鋭利なツイートだけど


ビクつくわたしはギラギラになりそこなったクリーミーなのかなんなのかよくわかんない、中途半端で逃げ腰なツイートをしてしまう



















この記事は、そんな私のこれまでのビクビクを克服するべく

あまり読み返さないように細心の注意をはらっている。

それが正解かはまだよくわかんない

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