なかよくけんか

漫画と漫画じゃない

お花畑に折り合いをつけて

就活がはじまる。わたしは焦っている。地に足がつかず、ばたばたと虚空を蹴っている気分だ。どこに足をおいていいのか分からない。こわごわと探っている。


先日、仲良い友達3人とご飯をたべたとき、わたしの長所なり短所なり人間像を、あけすけに教えてもらった。やっぱり就活の直前というのは自己分析をすべきらしく、ははあじゃあやるかぁと思ってひとり地道にノートに書き出してみたりはするのだが、客観的に自分をみるというのはむずかしい。それなら大学1年生のときから仲良い友達のほうがわたしのことを客観的に分析してくれるはず!ということで、わたしはどういう人間なのか、教えてもらったのだ。




結果、意外だった。わたしはリアリストで、合理的で、ひとに慰めの言葉をかけないらしい。
ひでぇ!とおもいつつ、確かにそうだなぁと思う。人が苦しんでいるとき、苦しみを共有して一緒にいてあげたり、慰めたりというよりは、その苦しみに対して処すべき行動を冷静に考えて提示したがるタイプで、自分勝手だし、あまり情に厚くない。
悩んで悩んで同じところをぐるぐるするよりは、「やるか」「やらないか」すぱっと決断して、諦めるにしろ諦めないにしろ早く決着をつけたくなる。(それはあきらかに、他人にまで押し付けていいものではないけど)




たとえばわたし自身が恋愛にくるしんでいるときも。心の中はごうごうとあつく燃えさかって爆発していても、ひややかな理性でもってなんとか飲み込まれないようにあらがう。ああああああああと一通り爆発したあと、「いま、なんで、自分はこうなってて、今後すべき適切な処置は」とぜいぜい息を切らしながら検討する。だって、感情に巻き込まれて理性ごともってかれると、えてして判断を誤ってしまうから。それは惨めな行動につながる恐れがある。避けたい。




そう、結局みじめになるのがこわい。なぜ怖いのかというと、思い当たるふしはたくさんある。
出来た人間ではないから感情任せの行動もこれまでたくさんしてきて、そのたびみじめな思いもした。
なるべくならそんな思い、回避したい。(いまではその考えはちょっと、勿体無いというか、消極的で間違っているとは思うが)
だから、わたしはいつのまにか合理的でリアリストな人間になったのだろうか。




ちなみにこの会合のあとに、エゴイズムという自己分析メーカー(?)もやってみたのだけど、そこでも「心の冷たい合理主義者」だとズバッと指摘されて、肝を冷やした。
ほかにも「神を信じない徹底した自力本願タイプ」だとか書いてあって、まじかそこまでか、とびびった。













でも、、うーん。
そんなに合理的でリアリスト一辺倒な人間だったっけ。わたしは。そんなにずっとサツバツとしているっけ。いやそんなことはない、とおもう。


むしろ、ロマンチストもいいところのアタマん中お花畑ちょうちょがひらひら人間だったとおもう。今でもそうかもしれない。






小学生のとき、絵を描くのが大好きだった。少女漫画もすきだ。小学校中学年くらいのときは、ちゃおを毎月買って、すみからすみまで愛読していた。はつらつ元気ハッピーなヒロインになって、第一印象の悪い俺様タイプな、でも根はやさしいクールな男の子と恋愛することにあこがれた。高校生になったらみんなこんなすてきな恋愛をするのかなー!なんておもっていた。将来的にはきらりになって星司くんと宙人とのあいだで揺れる心構えをしていた。



その後、小6くらいからだろうか、BLも読みだした。でもわたしは「好きな作品の好きなカップリングにまつわる創作を、もりもり漁って鑑賞する」という一般的なタイプではなかった。
わたしには大ファンの物書きの作者さんがひとりいる。そのひとの創作だけを10年間ちかくよんだり見たりしてきた。そのひと以外はもうずっとよんでいない。


10年間も読んでいると、自分のかく何でもない文章の端々にそのひとの影響がでているような気がしてくる。わたしは文学部だけど、ふだん全く小説を読まないし、そんな体たらくだから、ほんとに大学のレポートでもなんでも、文章構成の参考にできるのはそのひとの文章しかなかった。それしか読んできてないから。





まあそれだけファンで、小中学生のときは特にサイトに通いつめていた。
サイトにあがる新作を読みながらわああっと幸せな気分に浸るのが最高だった。
そのひとの文章は私にとっていっとう特別だった。






そのひとの文章を読む手段、それは前述した「サイトにあがってくる新作を読む」という他にも「通販で同人誌を買う」という手段があった。
けどわたしは当時まだ小中学生だった。得体の知れない「銀行振込」、自分が持ってるのかもそもそも不明な「銀行口座」、「定形外」だか「レターパック」だか未知の配送、兎に角わからないことが多すぎた。

なにより親に配達物の中身が同人誌だとわかったらどう思われるんだろうという恐怖がでかかった。






よって、同人誌かいたい、読みたいという気持ちを抑えつつ
イヤ冷静にむりっす、ということでずっと通販を諦めてきた。

わたしは長らく恋い焦がれていた。自分の手に入らざるとも確かに存在している文章たちに。サイトにあがる小説よりも、遥かな時間とお金をかけて制作されたであろうその努力の結晶に。


読みたい。とひたすらにおもっていた。
買えなかったぶん、余計にそう思った。
どんなにいいものだろうと、想像を膨らませていた。





ときは過ぎて、わたしは大学四年生になる。通販も容易にできるようになった。
いまさらわたしがなにか通販で注文して、家に届いても、親はなにも勘ぐらないし、ましてや勝手に封を開けるなんてことはしない。


もういくらでも買っていいのだ。ずっとかえなかった同人誌たちを。こんにち、わたしには選択の自由がある。今まで決して手の届かなかった甘美なものたちを、手に入れるチャンスは無数にある。彼方にあったロマンスは、いまや現実の世界へと降りてきたのだ。







けれど、それだけ私の立場が変わったということは、それ相応の時間が経過してしまったということで、もう10年も経ってしまった。10年もたてば、なにもかも、最初と同じではいられない。活発に運営されていたサイトは、いまやほとんど更新されず、広告が飛び交い、さっさとpixivに移行し、メインジャンルだって今流行りの版権ものに変わってしまった。もう、かつてほどの熱量は感じられない。



そんな過疎ってるサイトの中を潜り抜けて、通販の項目をチェックし、やっと、待望だった同人誌を買った。たしか、大学一年生のときとか。作品が到着して、とても嬉しかった。ああやっと買えたとおもった。でも同時にさみしかった。ずっと手の届かなかったものが、いまや簡単に手に入る。それはなんとなく、むなしい。手に届かなかったから、憧れていたのかもしれない。それに時代は変わったし、この手元にある同人誌には、かつてほどの熱量は感じられない。


なんだか、ずっと夢をみたままでいたかった。なまじ現実に手にしてしまうよりも、ずっと手に入らないまま、「ああどれだけいいものなんだろう!」といつまでも恋い焦がれていたかった。あれから、そのひとの同人誌は買っていない。そもそも、サイト運営が滞っているみたいだから、買いようもないのだけど。なんか、10年もたったんだなあ。さみしい。







いつも同じところでぐるぐる、頭のなかお花畑で夢見がちだった自分は、こうしてすこしづつ現実の世界を踏みしめて生きていくようになった。少女漫画みたいに、ほっといてもイケメン2人組に挟まれて、もう私どっちが好きなのかワッカンナイ!と選択に困る機会は現実には起こらないのだ。ロマンチックな文章や作品は、やっぱりいつまでも憧れるし、最高なのだけど、それはそれなのだ。現実は現実でこなしていかないといかんのだ。もう21歳なんだし。そういうことを学んできた。
頭のなかお花畑女が、いまや「心の冷たい合理主義者」か。いったいどっちが、本来の私なんだろう。なんて考えていると、とにかく自己分析に詰まるし、ああ就活こわい。